広報誌GREENS VOICE vol.4(2020.March発行)

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GREENS VOICE vol.4

 

シンガーソングライター 川口 真由美 Interview

 

世の矛盾を問うだけではなく、
「歌」は「敵」までをも包み込める

 

「70%の力」で歌うことから、「歌のチカラ」と

「思いやりの真髄」を再確認できました

 

 

「GREENS VOICE vol.1」でCDアルバム「人のチカラ~沖縄・平和を歌う・Ⅱ」を紹介したシンガーソングライター・川口真由美さん。沖縄・辺野古基地反対運動のシンボル的存在として、キャンプ・シュワブのテントや全国の集会などで強烈に響き渡る彼女の歌声は、沖縄・辺野古新基地建設反対をはじめ、数々の運動で「連帯の絆」を深めている。

その彼女が、昨年12月8日に3枚目のCDアルバム「このクニに生きて~沖縄・平和を歌う・Ⅲ」をリリースし、新たな境地へと自転していこうとしている。シンガーソングライターとしての本作への思いを踏まえて、「このクニに生きること」を、ともに共有したいと思う。

 

 【プロフィール】

京都在住のシンガーソングライター。障がい者施設代表で、3人の子どもを育てるシングルマザーでもある。戦争反対・護憲・反原発・沖縄基地建設反対などの運動に参加しながら、ファーストアルバム「想い 続ける~沖縄・平和を歌う・Ⅰ~(2016年12月)」、セカンドアルバム「人のチカラ~沖縄・平和を歌う・Ⅱ~(2018年5月」」、そして昨年12月にサードアルバム「このクニに生きて~沖縄・平和を歌う・Ⅲ~」(ともに音楽センター制作・発売)をリリース。また、彼女を中心に沖縄・辺野古新基地、京都・経ヶ岬Xバンドレーダー基地建設反対運動を扱ったドキュメンタリー映画「レジスタンスなう! この歌は届きますか…?(監督・原田圭輔/2017年製作)」では、アジア国際映画祭新人女優賞を受賞している。

辺野古には月1回ペースでゲート前の座り込みなどに参加。力強い歌声を披露し、人々の「連帯」を支えている。

 

スタイリッシュさを追求しながら、多様なテーマと向き合う

―― 川口さんのアルバムには3枚とも「沖縄・平和を歌う」というサブタイトルが付けられていますが、常に変遷があるように思います。まずは新たにリリースされた「このクニに生きて」を中心に、ご自身の変転というか、心の移り変わりについて、お話しいただけますか?

 

川口 当然ながら、「辺野古を止めたい」という沖縄への思いはいまも一貫していますし、むしろ大きくなっています。ただ、歌におけるアプローチ、それは私自身の心の揺れでもあるのかもしれませんが、それが少しずつ変化してきていることは事実です。

その背景には、運動を続けていく中で、それがなかなか広がっていかない焦燥感があります。その中で「歌」はどうあるべきか?! ということを、常に自問自答し続けてきましたが、現実的には集会の「ツマ」のような位置付けとして扱われてきたという感も否めません。

では、どうすればいいのか?! もっと多くの人たちに耳を傾けてもらうには、「何かを変えていかなくてはならない」というスタイルやスタンスに対する考え方が少しずつ変わってきていることは、間違いありません。

 

―― 今回のアルバム「このクニに生きて」では、その方向性が見えてきたということでしょうか?

 

川口 確信ではありませんが、韓国・台湾・香港・中国・ベトナムなどのアジアの国々を歴訪する中で、運動の中での音楽の在り様が日本と大きな隔たりがあることを実感して、新たな兆しが見えつつあります。

例えば、音響や映像との融合。韓国などでは草の根で民衆とともに歩み、抗う「民衆歌謡」というジャンルが確立していて、街頭においても音響や映像とのコラボレーションが満載。彼らは街頭で堂々と音楽をやっていて、正直、レベルが違うと感じました。とにかくオシャレなんです。オシャレっていうのは、単にカッコいいというだけじゃなくて、人に受け入れてもらうための基本姿勢のように感じました。決して媚びるんじゃなくて、すそ野を広げるための第1歩。そういう意味で、私もオシャレでありたいと思っています。

一方、日本では、草の根の「路上の歌」を歌える人が圧倒的に少ない。だから、「辺野古だったら川口真由美だ」ということになってしまい、私が全国を駆けずり回っている(笑)。

同時に運動の中では、いまだに「できるだけコストをかけずにやっていこう」という状況が続いていて、アーティステック、クリエイティブな工夫はなおざりになってしまっています。これでは、「音楽と運動の関係性」を深めていくのは難しいなぁと感じました。もっと「友だちを誘いやすい」集会にしていくためにも、運動を拡げようとする人たちには「歌の力」をもっと信じて欲しいし、真剣に考えてほしいと思っています。

もちろん、日本においても、写真や映像を通じて、社会の様々な問題を浮き彫りにしていこうとしているカメラマンや映像作家がたくさんいます。ただし、現実問題として発表できる場は限られています。そういった人たちと出会う中で、一緒に組んだらどうなるだろう、コラボせんとあかん、という気持ちも膨らんできています。

 

―― そういう意味で、「このクニに生きて」では、これまでの聴いている人に直接訴えかけるようなメッセージ性に加えて、オシャレというか、スタイリッシュに仕上がっているように感じます。それもプロデューサーやアレンジャー、参加アーティストとのコラボレーションの賜物なのでしょうか?

 

川口 そう感じていただけると嬉しいです。例えば、今回のアルバムの3曲目として、この胸の奥深く」というタイトルで運動歌の定番ともいえる「We Shall Overcome」を収録したのですが、この1曲だけはメジャーで活躍されている井上鑑さんからご自身で訳された日本語の歌詞を提供していただくとともに、アレンジ、ピアノとシンセサイザーの演奏を含めて関わっていただきました。1981(昭和54)年の「第23回日本レコード大賞」で大賞・金賞・作詞賞・作曲賞・編曲賞に輝いた「ルビーの指環」の編曲をはじめ、音楽プロデューサー、アレンジャー、作詞・作曲家として福山雅治やTHE ALFEEなどといった多数の著名アーティスの楽曲に関わってきた方です。そういった普段関わりがない、メジャーな人と組めたというのも、今回のアルバムの1つの成果かなぁと思っています。

その時の井上さんからのリクエストが、「肩肘張らずに、70%の力で歌って」。基本的に力一杯、精一杯歌うように見せるのが自分のスタイルだったので、正直、相当の難題でした(笑)。この曲はアメリカのプロテストソングを代表するピート・シーガーがアメリカの公民権運動の象徴として広げていったトラディショナルソングですが、実はブルース・スプリングティーンもカヴァーしていて、井上さんの頭の中にはその語りかけるような歌い方のイメージがあったようです。ただ、最初はそれがまったくできなくて非常に苦労したのですが、感触を掴んだら、自分の声とは思えないくらい、スムーズな響きで歌うことができました。

この曲は日本では「勝利を我らに」という題名で、もちろん海外でも多くのアーティストが歌っていますが、これまでとは一味違ったオシャレかつインパクトがある作風にできたかなぁと思っています。当然、収録曲に関しては、その仕上がり過程にも携わったのですが、実はこの曲だけは井上さんに一任して、私自身もCD音源となって初めて聴いたんです。いろいろなことが1曲に表現されていて、結構、衝撃的でした。聴き方によっては教会で歌っているようでもあり、低音の部分はオスプレイを連想させるような感じもあって、「沖縄の人たちがこれを聴いて、大丈夫やろうか?!」と心配になったりもしました。

また、「70%で歌う」という感覚を通じて、運動においても、しんどかったら「ちょっと休んどき」みたいな思いやりを渡せる大切さも学びました。「行かなあかん」という中で連帯を育くんでいくのも運動ですが、運動を継続させていく上では「誰かを肩代わりできる」ことも大事なんだと感じました。ある意味、自分を一皮むいてくれた気がして、この曲との出会いに感謝しています。

 

―― これは僕が感じたことですが、ファーストアルバム「想い 続ける」では辺野古のことを知ってもらいたいという気持ちが溢れていて、セカンドアルバム「人のチカラ」は戦争への足音が近付いている世の中の状況への怒りのようなものが前面に出ていたような気がします。それが、今回のアルバムでは「人間愛」のようなものを感じました。ご自分では、どう思っていらっしゃいますか?

 

川口 そうやね。レコーディングのエンジニアさんから「大人になった」と言われました(笑)。彼はずっと私のアルバムを担当してくれていて、普段運動とは関係のない人だけに、率直な意見だと思います。

何を隠そう、最初のアルバムとセカンドアルバムは、アシスタントを務めていた人がしんどくなってしまう現象がありました。理由は、「歌詞がしんどい」ということだったようです。

実際のところ、世の中に流通している音楽は、「ホンマのことを言ったらあかん」っていう風潮があるでしょ。だから、そういう音楽を聴いている人たちからすれば、私なんかは歌手じゃないのかもしれません。いわば、「モグリの変なヤツ」としか思われてないかも?! 本当に悲しいことなんだけれど、メジャーレーベルからCDを出しているアーティストしか認めてもらえない、という現状があるように思います。

でも、私はやっぱり、みんなに聴いてもらいたい。そういう音楽業界の現状にモノ申したい。だから、私の思いとかメッセージは外せないのだけれど、多くの人に聴いてもらえる曲にしたいという潜在意識が、今回のアルバムでは反映されたのかもしれません。それは決して意識的にということではなくて、私自身に自分でも気が付かない変化があって、自然にそうなったって感じです。その結果、「いままでとは違う仕上がりだね」と言ってくださる人も多いです。

ちなみに、今回担当してくれたアシスタントの人は共鳴してくれているように見えました。もっとも、単に彼がいい人だったからなのかもしれませんけどね(笑)。

 

―― 「ペンペン草」という、フォークソング世代の曲が収録されているのも印象的でした。

  

川口 フォークソングって、関西が一世風靡した時代があったでしょ。だから、そういういわばフォークの重鎮みたいな人たちが、私をゲストに呼んでくれたりする機会が結構あったんです。「ペンペン草」は、そういう人たちがよく歌っている曲でした。でも、正直なところ、ダサイなぁーって思っていて、聞き流していました(笑)。

ところが一昨年、高石ともやさんたちと一緒にライブをする機会があって、驚愕したことがあったんです。彼らは、すでにその日に演奏する曲を決めてきたんですが、本番直前に楽屋で予定曲を全部変えはったんですよ。「今日はあの人が来ているから、これをやろう‼」って。

それを目の当たりにして、開眼したんです。「フォークソングって、そこにいる人たちに寄り添って歌うものなんなんや‼ めちゃカッコイイやん」って。その瞬間、「私もフォークシンガーやん‼」と思って(笑)。「もっと、私を呼んでよ!!」って気になったんです(笑)。

そのライブには沖縄の人が観に来ていて、「だったら、ペンペン草をやらんといかんね」って、楽屋で話し合われました。一緒にステージに立ったんですが、歌詞に「原発」とか「核」、「戦争」などに抗う言葉が入っているにも関わらず、軽さもあって、観客を含めてみんなで入っていける、みんなで参加できるこの曲に、とても魅力を感じました。そこで、私なりに考えて「ペンペン草」を歌うようになって、自分なりに消化できるようになっていきました。今回のアルバムの収録曲で、最初に決めたのが「ペンペン草」でした。

 

「唄者」との出会いの中で、「歌」に対する観念が変わった

 

 ―― もう1つ、今回のアルバムでは、いじめやハラスメントの問題や過労とストレスで亡くなったお子さんを想う親の心情を歌った曲など、これまで以上にバラエティに富んでいて、「偏見や不条理の共通項」を垣間見ることができます。その辺りは、やはり意識されているのでしょうか?

 

川口 特に意識しているわけではないのですが、必然的に入れたい歌がそうなってきています。私自身が転換期を迎えていたからかもしれません。歌手としての自分、1人の市民としての自分、母親としての自分、そして1人の人間としての自分をもう一度見つめ直していた時期でした。それでも、集会があれば「行って、歌わなあかん」という圧迫感を感じながら生きていました。正直、運動の中で落ち込まされる裏切りにも遭いました。そういうことで苦しみ、立ち止まりそうな私を奮い立たせてくれたのが、友人の優しい言葉であったり、新たな人たちとの出会いでした。

とりわけ強烈だったのが、石垣島の「唄者」との出会いです。運動に長く関わっている人でもあるんですが、とにかく自由なんです。それを歌にもしますし、垣根を越えて人を迎え入れてくれる。

そういう彼女から、唄(歌)は「人を包み込むことができる」ということを気付かせていただき、「唄者」の存在を改めて確認しましたそして、石垣島で多くのことを学んで、私もそうしたい、そうありたいと思いました。今回のアルバムで引き出しが増えたと思っていただけるのは、問題の根底が共通しているということもありますが、「包み込む」ことの大切さを実感し始めたからかもしれません。

 

―― 「歌」そのものの概念というか、観念が変わったということですね。

 

川口 アルバムに収録されている最後の曲「歌が救う」は、「歌」というものに対する私の再考・再決意が込められているんですが、本音を言うと運動を牽引する人たちへの怒りというか、投げ掛けも含まれているんです。「行かなあかん、歌わなあかん」という圧迫感の中で集会の場所に辿り着いたら、すぐにマイクを向けられて、歌うことを課せられる。確かにそれも私なんですが、同時に私は1人の市民でもあり、人間でもあり、母親でもあるわけです。時には、歌そのものや、私自身が履み付けられることもある。そこに対する「なんでやねん‼」という気持ちが生じるとともに、「立ち向かってやる」という思いが湧き上がってくる。だから、この曲のように「生きてやれ、歌ってやれ」となるわけですが、改めて「私って大変やなぁ」と思います(笑)。

 

運動という闘いの中で、歌い手として感じる「沖縄はいま」

 

―― アルバムタイトルでもある「このクニに生きて」という曲では、辺野古のゲートで対峙してきた沖縄県警にエールを送っているのが印象的でした。これも、「包み込む」というイメージなのでしょうか?

 

川口 普通に運動を考えれば、敵対する相手ですよね。でも、歌では仲間にすることもできると思います。この曲は2016年にうるま市で起こった沖縄の若い女性が米軍属に殺害された事件のことを歌っているんですが、実際に森や川の中を這いつくばりながら、血眼になって証拠を探したのは沖縄県警で、彼らの多くは沖縄県人です。そういう彼らが、心底、敵であろうはずがない。むしろ、同じように人権を蹂躙されている仲間なんじゃないか? そう考えると、トラックで土砂を運んでくる人たちを含めて、単に罵声を投げつけているだけじゃ、前に進めないと感じたんです。私自身のそういう気持ちをクリアにするために、この曲を書きました。

実際に、辺野古の座り込みでごぼう抜きされている時に、沖縄機動隊の中隊長にこの曲のことを伝えたんですよ。そうしたら、「ありがとうございます。沖縄をこんな状況にした大きな力を変えてください」と確かに言ってくれました。

 

―― 川口さんを含めて本土の人間が、当事者である沖縄の人たちとともに声を上げていくのは、決して容易なことではないと思います。その渦の中で、川口さんはどういうスタンスで運動に参加し、溶け込んでいかれたのでしょうか?  

 

川口 まずは本土の中にも、この問題に異を唱える人間がたくさんいるということを知ってもらいたいと考えました。でも、そのためには単に声を荒げるだけでは伝わらない。なので、私は本土の人間としての存在感を知ってもらおうと、しつこく歌い続けることで、座り込みをしている人たちにも、機動隊の人にも、顔を覚えてもらおうと思ったのです。あっという間に輪の中に入れてもらうことができました (笑)。

また、「キツイ言葉」っていうのは、相手が誰であろうとも、暴力になってしまう。だから、そういう行為で自分の気持ちを投げ掛けたくなかったというのもありますね。これについては、高江に住んでいる友人から「怒りの渡し方」について説かれた影響も大きかったかもしれません。「怒り」を直接ぶつけるだけでは、相手は逃げてしまうか、反発する。でも、「ふわーっと」渡すことができたなら、どうなんだろう? って。「なるほど」と思って、私はその時、「歌なら、それができる」と確信したわけです。

 

―― 「このクニに生きて」という曲は、そういう試行錯誤の末に生まれたのですね。 

 

川口 はい。現在の沖縄機動隊の人たちも、いずれは上司になっていくわけですね。その時に、自分の部下に対して、彼らにどう語らせることができるか? というのも、辺野古の運動では重要なカギを握ると思うんです。「座り込みをしている人たちは決して非道ではないし、辛辣でもない。だから、自分たちも立場を尊重して仕事に当たろう」と部下に伝える上司が1人でもいたら、その力添えになることも必要な気がします。立場上、ずっと敵対し続けてきたからこそ、そこも大事なんじゃないかなぁ……。

 

―― このうるま市で在沖米軍関係者に殺害された女性と、沖縄平和運動センター議長の山城 博治さんをテーマにした曲は、どのアルバムにも収録されていますよね。 

 

川口 当初から博治さんが言い続けている「辺野古は民主主義の最後の砦」という言葉に、強烈な衝撃を覚えたんです。だからこそ、彼は「全国の人の理解と連帯が大切」だと考えて、私たち本土の人間にも、本当に温かく接してくれます。沖縄の「不屈の精神」の根底には、そういった懐の深さが流れているような気がします。

当然ながら、一口に運動といっても、決して一様ではありません。本土の中には、「基地を引き取る」という運動も生まれています。それはそれで、貴重な考え方だと思います。でも、やっぱり原点は、住んでいる人たちの気持ち。そこを受け入れずに進めていったら、同じことの繰り返しで、壁ができてしまうような気もします。「違い」を超えてやっていくことは、確かに重たいけれど、乗り越えていくことの大切さを思ったりしています。

 

―― このアルバムには琉球弧における自衛隊基地ミサイル基地配備に異を唱える曲も収められています。この問題は、大手メディアがあまり報道しないこともあって、日本の多くの人たちにあまり知られていません。それだけに、大きな意義を感じます。

 

川口 私自身、琉球弧の問題を「歌」を通じて闘いを広げたい‼ 止めたい‼ という思いで作詞・作曲を手掛け、曲にしました。特に石垣島は琉球弧における自衛隊基地建設の最後の島ですし、先にお話しした尊敬すべき唄者がいることもあって、何とか阻止したいという気持ちで、辺野古に行った際にはできるだけ立ち寄るようにしています。しかも、石垣島の場合は自衛隊配備に関して、島民たちが十分な条件を満たして住民投票請求しているにもかかわらず、島に暮らす自分たち自身で島の未来を選択することさえできない状況が生まれています。ですから、琉球弧の問題が本当は私たち1人ひとりの問題であることを、歌を通じて少しでも共有できたらと考えています。

 

―― 琉球弧の問題の原点は、どこにあるのでしょうか? 

  

川口 琉球弧の問題は、そもそも「仮想敵国」を作るところから始まっているんだと思います。「本当にそうなのか⁈」という疑問を持って、私は海外にも足を向けるようになったんですが、決して「敵」ではないというのが私の実感です。みんな優しいし、礼儀正しい。

ただ、逃亡犯条例改正案に反対するデモの最中に香港に行った際には、逆の恐怖を感じました。警察が黒い服を着たデモ参加者たちを標的にしていたからです。もしかしたら、日本でいえば、私が黒い服を着た標的だと思ってしまい、恐怖を感じました。それに香港の警察は、容赦がありません。催涙弾が飛び交う戦地さながらで、デモに集まった人たちにとっては、まさに命がけの行動。辺野古の機動隊は、なんて紳士的なんだろうとさえ思いました。

このような場面に遭遇して、改めて「現実」を直視することの大切さを肌で認識しました。琉球弧の問題もそうなんですが、日本においては、「現実」の恐ろしさをメディアが報道しにくくなっている状況があるように思います。その結果、インターネットやSNSに点在する偏った情報に左右されて、自分で消化しきれずに刷り込まれてしまっているケースも少なくないような気がします。その結果、多くの人が自己判断できずに、「仮想敵国」を偶像化してしまっているのではないでしょうか。これはこれで、とても怖いことだと思います。そこで、私なりに、実際に石垣島や宮古島に足を運んだ時の思いを素直に伝えたいと考えて、アルバムに収録した「友愛の風」を作りました。少しでも多くの人たちに、琉球弧の「現実」に触れてもらえれば幸いです。

 

障がい者施設の運営を通じて、「格差社会」を問う

 

―― 川口さんは障がい者施設の代表も務められていらっしゃいますが、まずはそこに至った経緯を教えていただけますか?

 

川口 「就労継続支援B型」といって、障がいや難病を抱えていて、年齢や体力などの理由から、企業など働くことが困難な方が、軽作業などの就労訓練を行うことができる福祉施設を運営しています。昔で言えば、いわゆる共同作業所ですね。

私自身は、20代の後半からこのような福祉の世界で働き始めたんですが、あまりにも触れ合いが楽しくて、はまってしまったんです。

はまったというのは、当時から私は音楽をやっていましたから、彼らの前で歌や演奏を披露していたわけです。すると、とにかく楽しみ方が自由なんです。好きなようにノッて、好きなように踊る。そんな彼らと接していて、むしろ「自由じゃないのは自分じゃないか」と思ってしまったくらいです。しかも、初めて会った人でも、友だちのように接してくる。そういう、屈託のない、素直なあっけらかんさに魅せられてしまったわけです。生涯続けていきたいと決めて、2016年に京都で施設を立ち上げました。

 

―― 「福祉」という言葉は美しく感じるようで、よく政治家が口にしますが、実際には様々な問題や矛盾を抱えているように思います。何か実感されていることはありますか?

 

川口 私たちのような施設も、もともとは障がいを持つ子どもたちの親とそれを支援する人たちが育んできた運動の中で生まれてきたものです。ところが、それが制度の中のサービスとして定着してくると、必然的に「格差」や「主従関係」が生まれてきてしまいます。職員が障がい者手帳のあるなしだけの既成概念の中で区別して、わずかな工賃ながらも「支援してあげている」という上から目線の発想になってしまうこともあります。また、サービスとなると、「利用料」というものも発生します。さらには新規参入する組織が増えてくると、育まれてきた思想というか理念も、共有できなくなっていきます。このように、システムや仕組みの中に組み込まれていくことで、運動の中で勝ち取ってきたものが形骸化し、また新たな戦いを強いられるという悪循環が生まれているのが現状のような気がします。

また、本来は支援を目的としているはずの作業所という施設自体が、グローバルに進展する資本主義経済に呑み込まれているという問題もあります。私たちが普段作っているモノの多くは、中国へと流れて最終製品となるものです。例えば、手袋の製造過程における非常に細かい作業。また、環境問題の要因としてクローズアップされているプラスチック製品に関わる作業もたくさんあります。これまで労働賃金が安価な発展途上国が担ってきた工程が、いまは作業所に回ってきているのです。いずれも、AIに移管できない繊細な作業、AIにできたとしてもその開発コストに見合わないような作業ばかりです。

当然、私自身も大きな矛盾を感じながら、いまは抗う術を持てずにいますが、末端といわれる場所から現政権を睥睨していくダイナミズムだけは持ち続けたいと思っています。だから、常に悩みつつ、作業所のみんなから元気をもらって、そして歌いに行くというパターンが、恒例になってしまっています(笑)。

 

―― 2016年7月に相模原市の「津久井やまゆり園」で入所者ら45人が殺傷された事件が起こって、現在、裁判が行われています。実際に現場を預かる人間として、どのように感じていらっしゃいますか?

 

川口 1つの例ですが、若い頃に働いていた昔の共同作業所は、障がいを持っている人たちも職員も、もっと和気藹々としていて、作業が終わってから、みんなでカラオケに行ったりすることもしばしばありました。でも、いまはそれもNG。「どこまでが支援なの?!」という議論が生まれてしまう。

本来、人間は異なる人たちが交じり合い、その違いを知ることで、人間性を高め、成長していくんだと思います。でも、こういう仕組みの世の中では、多様な人間同士が交じり合う機会はほとんどなくなってしまいますよね。機会がないまま、高学歴の人たちはその道へ、そうじゃない人は底辺へって構図が、着々と築かれているような気がします。それが、いわゆる「格差社会」へとつながっていき、偏見やヘイトの温床となっていくのではないでしょうか。とても恐ろしいことですよね。

そうなると、相模原事件の被告のような人が出現しても、何ら不思議はありません。人間には「上と下」があって、「自分は下ではない」と思っていなければ、生きていけない圧迫感にかられる日本。ある意味で、相模原事件の被告はその渦の中で、精神を病んでしまったのかもしれません。

やはり原点は、制度やシステムを超えて、「生きるものすべての命の尊さは同じ」というところで考え、「輪」を築いていくことだと思います。そして、個々がそういう発想をベースに考えていけば、「戦争が何故いけないのか?!」という答えも、自ずから出せるような気がします。

 

―― この現状を変えていくには、どうしたらいいのでしょうか?

 

川口 私は、小さなところから当事者の人たちに寄り添うということを大切にしたいと考えています。例えば、高齢者向けの施設では、ダウン症の人たちがお年寄りのお世話をしているケースもあります。また、介護士不足という実態から、海外の人たち施設に招き入れる方策も採られています。そういった働き手が、より真価を発揮できる環境に目を向けていけば、新たな展開が生まれるかもしれません。そういう意味において、まずはさまざまな現場をできるだけたくさん回ってみたいと考えています。

当事者の声を大切にしたいというのは、沖縄の問題でも同じです。ところが、運動が多様化していく中で最近、沖縄の人たちの声から少し遠ざかってきているかも⁈ と感じることもあります。沖縄の人たちが現実論として求めているのは「県外移設」。まずは、辺野古を止めることです。その投げ掛けをどう取るかってことが、まず一義的に必要なんだと思います。また、これは運動の中で埋もれてしまっていることでもあるのですが、普天間基地の滑走路の問題。実際には、これさえも返せていないのに、蹂躙の中で新基地建設は進められていく。

一方、スローガンはどんどん大きくなって、特に本土からは嘉手納基地を含めた「基地全面撤去」を叫ぶ声が聞こえてくる。確かに辺野古のプラカードにも、そのスローガンは書かれていますし、ホンマやったらそうしたい。でも、大きすぎるスローガンによって、目の前の沖縄の人たちが日常として直面している願いが遠のいていく可能性があることを、私は危惧しています。

まずは、そこで暮らしている人たちの日常を起点に、変えていかなければあかん。そういうことも、これからは歌にしていきたいと考えています。実際に歌詞を書き始めているんですが、細かいところまで考えてしまって、滅茶苦茶長くなってしまっています。でも、細かいことにこそ、真実があるんと違うかなぁと思いながら、難しいかもしれないけれど完成させたいと思っています。

 

―― 最後にシンガーソングライターとして、福祉施設の運営者として、どういうことを指針に生きていこうとされていますか?

 

川口 格差が大きい社会では、「こうあらねばならない」という硬直化した価値観に縛られてしまいがちです。そのような中で、私は子どもたちから、「ワケ分からないけど面白い、あの人のところに行きたい、あの人のところに行けば希望が湧きそう」といった変な大人でありたいと思っています。

もちろん、歌も施設の仕事も、真摯に取り組んでいく姿勢は変わりません。運動もね。だけど、それだけじゃなくて、人を引き付けることができるような、より多くの人に受け入れてもらえるような、何かを変えていくことができるような、既成概念にとらわれない「変な存在」であり続けていけるように、五感で自分を磨いていきたいと思っています。

 

 


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